Miyaさんの四谷Blog

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ビッグニュース

第101回 箱根駅伝予選会(06年10月19日)において、母校立教大学がトップのタイムで本

戦出場を果たしました。体感気温30℃というコンディションの中、見事予選会をトップで通過し、

正月2日・3日の本戦においてシード入りを目指し力走いたします。

  予選結果へ

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令和6年度  須賀神社ご遷座390年奉祝大祭 宮元町会日程表

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四谷生まれの四谷育ち、町会のイベント、地元のお祭り、江戸消防く組の紹介、担ぎ屋さんのお祭りレポート等、地元の紹介記事を中心に掲載しております。 

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2021.3.23 当ブログをご覧の皆様、お元気ですか?ブログ開設2年目を迎えました。訪問者数も延べ3,600人を超えました。当ブログでは地元のことや、日々の暮らし、趣味のこと等を発信しております。残念ながらコロナ禍で、趣味の担ぎ屋も休業状態ですが、地域の祭りの復活を祈りつつ、いろんなことに興味を持ち、身体と頭の体操をしながら暮らしております。退屈しのぎにご覧ください。また、皆様のコメント、フロントページ下からお送りください。

新緑の季節 

迎賓館前 若葉東公園
迎賓館
迎賓館からCOMORE
新宿区立公園で一番の巨木  大正(赤坂離宮目記念公園開園)時代からあった
1970年当時の四谷見附公園 となりが中学校の校庭だった。
現在 の四谷見附公園

四ツ谷駅前再開発 CO・MO・REをブラッと

2020.02.25  いよいよ明日はライフのオープン!ということでCO・MO・REをブラッと見学してきました。

四ツ谷駅前開発と当時の思い出 こちらをクリック

四谷見附から四谷大木戸に向かう甲州街道の尾根添いにはお江戸の名残を残す四谷十八か町があります。道沿いには四谷一丁目、四谷二丁目、四谷三丁目、四谷四丁目、また尾根から左右に横丁が走り両側の谷に向かい 他14か町があります。新宿に向かって左側の通りには手前から仲殿横丁、おだて横丁(たいやき若葉)、西念寺横丁、天王横丁(須賀神社参道)、石切横丁、法蔵寺横丁(若葉1-1)と横丁が続き、これらの横丁を入ったエリアが若葉一丁目町会です。四谷は横丁と坂の町。当町会は閑静な住宅街ですが神社仏閣等、江戸の名残を残す街並みも健在です。

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h31四谷駅前の開発

新町名と旧町名

四谷三栄町(箪笥町・北伊賀町・新堀江町) 信濃町(東信濃町・西信濃町・平長町) 須賀町(須賀町・南寺町) 大京町(右京町・大番町) 本塩町(本村町・七軒町・塩町一丁目) 南元町(元町・南町) 四谷一丁目(尾張町・麹町十一丁目・麹町十二丁目・伝馬町一丁目・仲町一丁目) 四谷二丁目(麹町十三丁目・伝馬町新一丁目・伝馬町二丁目) 四谷三丁目(伝馬町三丁目・忍町・塩町二丁目) 四谷四丁目(塩町三丁目・永住町) 若葉一丁目(南伊賀町・仲町二丁目・仲町三丁目) 若葉二丁目(寺町・谷町二丁目) 若葉三丁目(谷町一丁目)霞岳町(霞ヶ岳町・西信濃町・大番町)

過去の画像

若葉一丁目~三丁目の変遷

山中村。江戸時代は四谷伊賀町の南部、四谷仲町・四谷駕籠町(明治2年四谷東仲町)・安楽寺 門前・東福寺門前・西念寺門前・愛染院門前・鮫河橋谷町・元鮫河橋北町。明治4年四谷南伊賀町、 同五年東側の武家地をあわせる。同年四谷東仲町・四谷仲町の一部をあわせて四谷仲町2丁目、同 年武家地を四谷仲町3丁目、昭和18年四谷南伊賀町・四谷仲町2~3丁目をあわせて現行の「若 葉1丁目」とした。明治2年安楽寺門前・東福寺門前・西念寺門前・愛染院門前をあわせて四谷南 寺町、同五年さらに寺地をあわせて四谷寺町。同年鮫河橋谷町の一部と寺地をあわせて鮫河橋谷町 2丁目。昭和18年四谷寺町と鮫河橋2丁目をあわせて現行の「若葉2丁目」。明治5年元鮫河橋 北町・鮫河橋谷町の一部をあわせて鮫河橋谷町1丁目とし、昭和18年に現行の「若葉3丁目」に 改めたが、新住居表示は実施できていない。丁目の次の番号は街区番号で、住居表示番号ではない。 どう違うかっていわれてもなぁ。似たようなもんだ。  参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『新宿区史』『新宿区町名誌』など

十三軒横丁とあんつるさんの思い出

  • 安藤鶴夫さん

実家の住まいは十三軒横丁という袋小路で、戦後、十三軒の家があったことからついた地名だそうです。 元男爵、大学の先生、弁理士の先生、小説家、写真屋さん、元新橋の芸者さん、左官タイル職人等、合わせて十三軒。当時いた世帯も現在では5件になりました。我が家の左隣、1軒おいて安藤邸がありました。 演芸評論家、小説家としてで有名な方で 昭和38年 『巷談本牧亭』で直木賞を受賞されました。 若葉在住時のエピソードとして有名なのが、自宅近くのたい焼き「わかば」の話です。敗戦後の困難な時期に、しっぽまで餡が入ったたい焼きを売る店主の誠実な仕事に感動した彼が、このことをエッセイにして新聞に載せたところ、翌日から行列ができたという話し。 昭和27年にこちらに移ってこられたようで、僕より幾つか年上のハルコさいてんとヒデコさんという二人の娘さんがおりました。父親には息子の様に、娘さんには弟の様に可愛がられ、安藤邸を遊び場しておりました。 小学校の3年生頃までちょくちょく安藤邸にお邪魔しておりました。2階の執筆をする広間に上がり何をして遊んだという記憶はありませんが『淳ちゃん、淳ちゃん』と可愛がって 頂きました。 家を訪れたり道ですれちがう時は必ず敬礼で挨拶をするのが常で、 いがぐり頭のベレー帽姿、満面の笑顔で敬礼を返してくれました。 直木賞の受賞が昭和38年ですからちょうど小説を執筆されていた前後のころでしょう 。受賞後は多忙になられたし、僕も学年が上になったことで以前ほど御宅に お邪魔する事はなくなりましたが道でお会いすればテレながらも必ず敬礼で挨拶しておりました。残念なことに 昭和44年9月、僕が中学3年生の年に、60歳という若さで亡くなりました。 雑司ヶ谷霊園に墓所があります。

(ウィキペディより)

東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。1950年(昭和25年)から三越名人会を、1953年(昭和28年)からは三越落語会を主宰。新作落語が人気を博していた戦後古典落語を再評価して演芸評論の重鎮となった。それまで主に寄席で聞くものだった落語をホール落語という新しい形を定着させた功績は大きい。1959年(昭和34年)に急逝した湯浅喜久治[3]の遺志を継ぎ、東横落語会を引き継いだ。幅広い交友関係をもち、各種芸能に造詣が深かった。落語・講談等の寄席評論家としては正岡容と双璧。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒であり、戦後の落語界に大きな影響を与えた。文化庁芸術祭賞実行委員。小説も手がけ、1963年(昭和38年)『巷談本牧亭』により、第50回直木賞受賞。劇団前進座によって劇化され、日本国内の他に日中国交回復前の中国・北京でも上演された。

物事への感情の入れ方が激しくアンドウツルオならぬ「カンドウスルオ」の異名があり、自著『巷談本牧亭』でも言及している。NHKのテレビ番組『夢であいましょう』にゲスト出演した際には、梓みちよが歌った『こんにちは赤ちゃん』を聞いて放送中に涙ぐみ絶句した[4]。反面、他人の礼を失した態度には厳しく、来訪した編集者が原稿をあらためずに持ち帰ろうとしたところ取り上げてしまった。小料理屋で見知らぬ客が「アンツルがいる」と口にしたのを耳にして相手を怒鳴りつけた事もある[5]

日本の伝統芸能に関心を持つ若者に良い芸を紹介しようという意識は強く、写真家の金子桂三は他人に書庫を見せない安藤に伝統芸能関連の書籍を貸してもらい、のちに文楽狂言の撮影を手掛けるきっかけになった。永六輔人間国宝である豊竹山城少掾浄瑠璃を見せられて当時は浄瑠璃そのものの良さが理解できず、正直に理解できないと言ったところ怒った安藤に君は日本人ではないと言われ、後日安藤からわざわざ中国語に翻訳させた永を叱る手紙が届いた。以降「えい君」と呼んでもらえず冗談交じりに「ヨン君」と中国語風に呼ばれるようになり、それは安藤の逝去まで続いた[6]。厳しい演芸評論の一面ユーモラスな面も持ち合わせていた。

四谷にある鯛焼き屋を尻尾まで餡子が入っていると戦後新聞紙上で書いたところ大人気になり、その店は2012年(平成24年)現在も盛業中。最晩年、東京に残された客席が畳敷きの最後の寄席(落語定席)だった人形町末廣が閉場すると聞き、各方面へ保存を働きかけるも諸事情あり、自身が糖尿病で健康を害していたこともあって保存は果たせなかった[7]

1969年(昭和44年)9月9日、糖尿病性昏睡のため東京都文京区東京都立駒込病院で死去。60歳没。戒名は「順徳院鶴翁道寿居士」[8]。墓所は雑司ヶ谷霊園

1980年代には、落語ファン以外からは忘れ去られた存在となっていたが、安藤の影響を大きく受けた世代の一人である小林信彦が、志ん朝について書いた文章等で自身に大きな影響を与えた存在としてとり上げたため、再び注目を浴びた。小林は『日本の喜劇人』の古川緑波についての記述において間接的に、安藤は評論家としてよりもエッセイストとして優れていたと書いている。高田文夫は、若い頃に安藤の多大な影響を受けたと語っている。また、近年のお笑いブームを幅広くフォローしている評論家西条昇も、安藤を高く評価し、同じ評論家としてリスペクトしている。

  • 昭和の風景

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