miyaさん日記

miyaさん日記 はコメントを受け付けていません

2020.03.15  2019年は公私ともに変化の多い年でした。天皇のご即位と令和の始まり、夏にはラグビーワールドカップで世界中が熱狂!プライベートでは5月に会社を退職。10月には長男がめでたく結婚!さらに年が明けての新型コロナウィルスの感染拡大で世界中が第混乱。東京オリンピックは1年延期が決まりました。

老後2,000万円問題で大騒ぎした6月、家族の理解も幸いし無事退職いたしました。時期も時期、お江戸夏祭りシーズン、しばらく担ぎ屋を楽しみながら次のステップを模索していた折、区の子ども支援の募集を目にし、8月から区の子ども支援の仕事に就くことになりました。放課後の子ども広場、日々数時間の子どもたちとの時間は結構大変で刺激になります。

2019.09.15  さて子ども広場には1年生から6年生まで毎回、30人前後の子どもが集まります。子どもの安全管理が主な仕事です。活動室には遊具も多種多様、トランプ、ウノ等のカードゲーム、双六、野球盤、サッカーゲーム、レゴ等のブロックゲーム、積み木、さらに我々の時代(昭和)の遊具もあります。おはじき、お手玉、あやとり、折り紙、塗り絵、独楽、けん玉。仲間を見つけてのびのびと遊びます。子どもをとりまく環境がずいぶん変わりましたね。家庭環境、地域環境、教育環境等、我々が育った時代とは随分変わりましたね。恵まれた環境には違いないけど、どちらがいいのか悪いのか。

2019.12.23  65歳を過ぎ、課題は健康。血圧、血糖値はうまくコントロールしておりますが、以前、会社の健康診断で前立腺に気になる所見があり、暮れに、採血PSA検査を受けました。数値が少し高いので精密検査をしてみてはと紹介状を書いて頂き、逓信病院に明日から1泊2日の検査入院です。前立腺の生体検査というもので、腰に下半身麻酔を打ち、肛門から前立腺に向け針?を刺し12か所の組織を採る施術です。麻酔が効き、まったく痛みは感じません。クリスマスイブに晩酌なしの1日半の禁煙です。

2019.12.28  昭和の遊び 紙相撲 暮れから年始にかけてお仕事は休み。仕事柄、暮れから正月にかけての仕事生活から、ようやく世間並に正月休みです。我が家は、祖父、祖母、父、母、姉の6人家族でした。現在は父、母も亡くなり、息子は結婚、独立し我が家は女房と二人暮らし。僕が育った昭和30年代、明治生まれの祖父はまだ現役の左官職人でした。祖母は若い頃、四谷南寺町で三味線の師匠をしていたとか。そこに若い左官職人が通いつめて・・・?落語によくある話しですね。その祖父から教わったのが『紙相撲』でした。僕が小学校3年生の頃、菓子箱と画用紙で作ってくれたのが紙相撲の土俵と力士でした。箱に円を描き、紙の力士を四つに組ませ箱をトントンと叩く。紙の力士が本当のお相撲さんの様に相撲をとってました。当時は柏鵬時代。祖父は観戦に行くほど相撲好きで、毎日星取り表もつけていました。明治24年生まれの祖父は寡黙な人でしたが、時々孫の相手をしてくれました。宮田家の生い立ちについては追々、このブログで連載してみようと思います。この紙相撲、ネットで調べると、現在も紙相撲の愛好家の紙相撲協会があるそうです。実はこの徳川式紙相撲、1954年(僕の生まれた年)に始まったそうです。また、様々な紙相撲が老人会や子ども会で人気の様です。さて、暮れから正月、祖父になった気分で懐かしの紙相撲作りに挑戦です。

材料をそろえて、3種の土俵と30人の力士をつくりました。

2020.01.18 暮れの検査入院の結果が出ました。結果は異常なしということでまずは一安心。正月にかけて作っていた紙相撲も完成し、子ども広場で『紙相撲体験』の開催となりました。まず低学年の子ども達が興味を示しましたが初体験らしく、最初は土俵を手の平で叩き、歴代横綱力士もビックリ。『同体取り直し』が続出。徐々に指先で軽くトントンくらいがちょうどいいとわかり、ようやく相撲らしい動きに、上手投げ、突き倒し、寄り切り。決まり手が出だすと楽しそう!2年生のAくんが紙相撲に夢中になり強い紙力士(大鵬、千代の富士)を見つけたと大はしゃぎです!

ご家庭でお父さんの手作りの紙相撲はいかがですか?40代のお父さんも初体験かも。

☆土俵 力士を作って、紙相撲で遊ぼう!!

以前、会社の健診でも結石が見つかっていました。5年程前の結石の腹痛は痛み止めで治まり経過観察の状態でしたが、今回の泌尿科初診の際、右腎臓に約1cmほどの石があるとのこと。この際、結石の治療を受けることとしました。これも人生初の経験で、開腹手術ではなく、衝撃波による破砕だそうです。これも1泊2日の入院。3月9日から晩酌抜きの1日半の禁煙です。施術は1時間弱。麻酔無し、石に向けパン、パーンと衝撃波をあてて、石を砕くというもの。皮膚の表面を輪ゴムではじかれる様な痛みが。衝撃波が強くなると結石の発作の時の様な重い痛みを感じます。施術前に『我慢出来ない時は言ってください。』と言われ、どの程度が我慢できない痛みかわからず結局ノンストップ。石に亀裂を入れた様ですが未だ石らしきものは出ておりません。

2020.03.17  彼岸の入り。妻と墓参りです。自宅から歩いて20分ほどの場所にある日蓮宗本迹寺が宮田家の菩提寺です。日蓮宗寺院の本迹寺は、顕妙山と号します。寛永3年(1626)了本院日清大穂(俗名山中治郎、開基の次男)が開山、山中喜平治が開基となり、市ヶ谷に創建しました。青山六道辻への移転を経て、寛文4年(1664)現在地に移転しました。宮田鉄太郎さん(明治37年没4代前)からの檀家の様です。祖父の時代には檀家の総代もやっていた様で、今も残る寺の塀は祖父が建てたそうです。宮田家5代に渡るお付き合い、家族の健康を祈念しました。

江戸古地図の四谷の寺町(1858年)

子どもひろば 紙相撲トーナメント

校庭の桜

2021年3月29日 例年よりも早く開花した戸塚第一小の校庭の桜の下、月曜日、火曜日には終業式。水曜日には無事卒業式を終えました。3月に入ってずっと休校続きで1か月経ち、新学期、新1年生の入学も間も無くです。暖かな陽気になった校庭でひろばの子どもたちも伸び伸びと遊んでいます。

さて、ひろばに設置した紙相撲セットも早2か月が過ぎ、低学年を中心に遊具の役割を果たしております。新学期に転校をする子を含め、4つの相撲部屋からそれぞれ4人の力士が出場する紙相撲トーナメントを企画しました。第一回戸一場所紙相撲トーナメント!週開けに開催です!

第1回 紙相撲トーナメント 初代横綱決定戦出場力士

2020年3月30日 第1回紙相撲トーナメント開催です。4つの部屋から関取4名が出場です。優勝、準優勝力士が初代横綱に、3位力士(2名)が大関に認定されます。さて、結果はいかに。四股名は様々です。結果は同部屋力士の決勝戦で決まりました。

入賞力士に化粧廻し、認定証が授与されました。

2020年4月5日 連休明けまでの学校の休校の継続が決まりました。ある程度予想はしていたものの保護者、こども達の心の内は?ひろばの運営も心配です。

入学式を終え、子どもひろばに新一年生が来ました。入学早々、休校ということもあり、男の子2人、女の子1名。それでも元気いっぱい。レゴ遊び、サッカー等、先輩児童と一緒に遊んでおります。新一年生のS君、紙相撲に 興味をもった様子。部屋を立ち上げ、早速14人の関取の親方に。半月が経ち、慣れたところで2回目のトーナメント戦を実施しました。自分の力士が優勝し、盛り上がっておりました。

20年4月25日 週開けにはGWです。新型コロナウィルスの影響で街は人出が少なくひっそりとしています。この連休も引き続きステイ ホーム。連休明けに予定されている学校の再開はどうなるのでしょうか。さて、子どもひろばも学校の休校に伴い、ひろばプラスの児童のみの預かりとなっています。少人数なので遊びも限られ退屈ぎみ。S親方は相変わらず紙相撲に夢中です。それに触発されたのか、新部屋が2つ出来、合計で8部屋、協会登録力士も80名を超えました。トーナメント開催のリクエストもあり24日までで16回を数えました。週末を利用して番付作りです。お付き合いしている方も、結構楽しんでおります。

懐かしい写真

2020年4月25日 自宅で過ごす期間が長くなり、女房が収納の整理を始めました。ダンボール箱から昔なつかしいアルバムが出てきましたので一部紹介します。1955年から1982年までの写真です。過去の出来事を振り返るいい機会、時折、アルバムをめくりながら、65年の記憶を遡ってみようかな。

2020年5月8日 家庭待機の連休が明け、東京の緊急事態宣言の延長が決まりました。こどもひろばも引き続き『ひろばプラス』の児童の一部を預かる運営が続きます。子どもの数と支援者の数のバランスをとる為、来週から交替で休みを入れることとなりました。昨日と本日、3学年づつ、学校から課題を渡すということで朝から保護者、児童が訪れています。休校から2か月、勉強の遅れも心配ですが、先の見えない不安が続く中、心のケアも必要ですね。

2020年6月6日 例年6月の第一週は地元四谷須賀神社のお祭りです。コロナウィルスの感染防止で東京のお祭りも自粛です。毎回、担ぎに来てくれる息子の友人達も今年はお休み。東日本大震災以来の自粛で中止となりました。そこで息子夫婦とのランチ昼飲み会を開催です。差し入れのおいしい芋焼酎を飲みながらの楽しい食事会となりました。

2020年7月7日 芝増上寺 阿波丸殉難碑参拝 昭和20年4月1日、台湾沖にて米国潜水艦によって撃沈され、僕の叔父を含め2,000名を超える犠牲者を出した阿波丸事件(*1)。昭和52年、阿波丸犠牲者の33回忌に遺族会によって、ここ芝増上寺に阿波丸事件殉難者の碑が建立されました。お盆を前にお参りいたしました。

1944年(昭和19年)10月に、日本とアメリカの間で捕虜・拘束民間人への救援物資を交換する協定が成立した。両国の物資は中立国ソビエト連邦領のナホトカで交換され、アメリカ側救援物資2025トンは貨客船「白山丸」により持ち帰られた。アメリカ側物資のうち800トンは日本軍占領下のジャワ島・マレー半島などの捕虜収容所向けであり、その輸送担当に選ばれたのが当時の日本に残る数少ない優秀貨客船となっていた「阿波丸」であった。日本と東南アジアを結ぶ航路はアメリカ潜水艦の通商破壊により極めて危険な状況だったが、「阿波丸」は病院船に準じた保護(安導権、Safe-Conduct)が約束された。軍隊輸送船状態だった「阿波丸」からは武装が撤去され、識別のため船体を緑色の迷彩塗装から灰白色へ塗り替え、舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マークが描かれて夜間には煙突に照明も灯された。アメリカ軍は「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令した。 「阿波丸」の往路では、800トンの救援物資が積み込まれたほか、航空機・自動車の予備部品や弾薬など600トンの軍需物資が積み込まれた。軍事利用は協定違反だったが、日本軍により軍需物資の積み込みが決定された。1945年2月17日に門司を出港した「阿波丸」は、高雄港で22トン・香港で41トン・シンガポールで562トンの救援物資を降ろし、最終目的地のジャワ島(救援物資175トン)へ無事に到着した。3月28日、当初の任務を終えた「阿波丸」はシンガポールを発って日本への帰途に就いた。協定では帰路でも安全が保障されていたため、日本軍は再び軍事輸送への利用を計画した。船長は反対したが軍の要求に押し切られた。「阿波丸」には、船が撃沈されて滞留していた商船員480人、三井物産支店長以下の商社員・技術者・大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人・軍属820人が便乗することになり、乗員と合わせて2004-2130人が乗り込んだ。また、スズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5000トン以上、生ゴム2000トン以上、重油及びガソリン2500トンという大量の軍需資源が船倉には収められた。アメリカ軍は暗号解読で日本側の工作を知り、航空偵察で「阿波丸」が物資を積んで喫水が深くなった状態であることも把握していた。アメリカ太平洋潜水艦隊司令官のチャールズ・A・ロックウッド少将は、チェスター・ニミッツ大将に攻撃許可を要請したが返答は届かなかった。 1945年4月1日午後10時頃、「阿波丸」は、沖縄戦勃発の影響で予定針路を変更して台湾海峡に進入、平潭県牛山島付近を航行していたところ、アメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」にレーダーで探知された。「クイーンフィッシュ」は潜望鏡による目視確認を行わないままレーダー照準で攻撃を開始。およそ50秒後に「阿波丸」へ魚雷3本(4本との説もあり)が命中し、ほとんど一瞬で沈没した。約10分後に戦果確認のため浮上した「クイーンフィッシュ」は無数の人が漂流物に混じって泳いでいるのを発見し、うち船員1人を収容した。「クイーンフィッシュ」の報告によれば、他の漂流者はいずれも救助されるのを拒んだ。「クイーンフィッシュ」に収容された1人を除く、2003-2129人全員が死亡した。

2020年7月13日 東京のお盆 我が家は13日(月)お迎え火、14日(火)墓参り、15日(水)(中日)、16日(木)送り火。今年は梅雨明けが遅れ、肌寒いお盆となりました。

2020年8月1日 現在、勤務中の放課後こどもひろば他2か所の運営が9月より東急キッズベースキャンプに移管されることになり、花園小学校で勤務することになりました。こども達ともあと1か月でお別れです。3月以降、新コロナウィルス感染拡大に伴う自粛運営が続く中、50人程いた児童も現在では20人前後に縮小しての運営が続きます。学校の授業が再開しましたが、以前のような生活に戻ったわけではありません。毎日のようにコロナ関連報道が流れ、感染や生活への不安を抱きながらの生活が続いています。感染予防の他、大人も子供も心の健康維持が大切です。間も無く短い夏休みが始まります。基本的な予防を心掛け暑い夏を乗り越えましょう。

2020年8月9日 大正10年7月17日生まれの叔父は昭和20年、阿波丸に乗船し同4月1日、米潜水艦により撃沈され2,000名を超える乗客とともに亡くなった。連休を利用し浅田次郎が2002年に阿波丸事件をモチーフに、太平洋戦争末期に台湾沖に沈んだ豪華客船「弥勒丸」(みろくまる)の沈没の真相と、その人間模様を描いた『シェエラザード』を読んだ。マニラが落ち、連合軍に南支那海、東支那海の制海権、制空権を奪われたていた。アメリカ側物資800トンを積んで日本軍占領下のジャワ島・マレー半島などの捕虜収容所向け物資を輸送する任務に選ばれたのが当時の日本に残る数少ない優秀貨客船となっていた「阿波丸」であった。病院船に準じた保護(安導権、Safe-Conduct)が約束され、識別のため船体を緑色の迷彩塗装から灰白色へ塗り替え、舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マークが描かれた阿波丸はナホトカを出港した。予定の航路で物資を降ろし最終寄港地シンガポールからの帰路、台湾沖にて米潜水艦の雷撃により撃沈された。終戦までわずか4か月。あの船に乗船していなければ。戸籍抄本の叔父の記録には昭和貳拾年四月壱日時不詳東支那海方面二於テ戦死、とあった。なぜあの船に乗船することになったのか。手掛かりは叔父の軍歴であろう。調べてみよう。

2020年8月24日 夏休み最終日。ひろばの子ども達がお別れ会をしてくれました。ここのお仕事もちょうど1年1か月。1年生から6年生までの多くの児童がひろばを利用してくれましたが今年3月からは新型コロナウィルスの感染防止の為、預かり人数を絞り運営しておりました。8月に入り、運営母体が変わることも知らされ、彼らの企画による『お別れの会』を開いてくれました。大勢のこども達と過ごした1年、それぞれに記憶に残るものでした。とにかくびっくり企画で、一瞬涙腺が緩みました。皆さん仲良く、元気に伸び伸びと成長して下さい。そしてまた再会できる日を楽しみに!さようなら!

2020年8月28日 安倍首相の辞意表明。持病の悪化によるものらしい。来年9月までの任期を残し、残念な辞任です。最長政権だということ。本当にお疲れ様でした。

2020年10月17日 久しぶりの記帳です。9月1日から職場が新宿、花園小学校の子どもひろばに移り、こちらの地区の子ども達と関わりを持つことになりました。戸塚一小と同じく放課後子どもひろばの支援です。こちらもコロナ禍の中、ひろばプラス(共稼ぎ家庭の子どもの預かり)に限っての運営です。日々20人程の児童が放課後の時間を過ごします。まずは、宿題タイム、そして遊び、夕方18:00位まで学校の施設を利用して過ごします。1年生から5年生まで仲良く楽しく過ごしてくれればいいのですが、成長過程の違い、仲間同士の関係性からおこるトラブルも有り戸惑うことも多々。それでも子ども達にとってはごく日常のことの様で、彼らなりに解決の方法を学んでいるようです。コロナ禍の期間が続き、従来以上に規制が厳しい中、大人同様に何事もなくいられる訳は無く、時には安定を欠く行動に出たり、子どもなりに辛いときもある様です。コロナ禍のポッコリお腹が気になる今、四谷から新宿一丁目までの、往復約3.6kmの徒歩通勤で頑張っております。新宿通り添いの店もずいぶんと変わりました。通勤路である四谷天王坂もまもなく暮れの風物詩、酉の市で賑わう季節です。今年は三の酉まで。

四谷須賀神社酉の市

四谷の風物詩、四谷の大鳥神社、酉に市。コロナ禍の中開催されました。大小の縁起物の熊手が並び地元の人で賑わう年の瀬の地域の行事です。今年は三の酉までありました。勤め帰り、立ち寄った氏神様。昭和の時代に比べるとちょっと寂しくなりましたがしっかり市が立ちました。前のオリンピックの頃に記憶を戻して、友達と連れ立って『お酉さま』に。境内から隣の公園まで数多くの縁日が出て、お祭り同様、地元の人で賑う光景。懐かしい思い出です。

校庭の桜

2021.03.17 今年の校庭の桜は花園小学校です。開花は例年よりも早く、卒業式を待たず8分咲き。コロナ禍自粛で今年も町会の花見は中止のようです。

 

Visited 86 times, 1 visit(s) today